本当の本当の本当は、怖い。

たまたまバリー・ハリスさん(伝説のジャズピアニスト)の動画を見ていて、「こんな風に軽やかにスイングするピアノが弾けたらなあ」と思いました。

 少しだけピアノは触れますが、ちゃんと習ったのは小学生の頃の2年間だけで、それすら練習ほぼ無しの行き当たりばったり。 

自分で行きたいと言ったのに、ちっとも練習しませんでした。(お母さん、ごめんなさい。苦笑)


 幼い頃はクラシックのピアノのお作法がどうも苦手だったようで、「ちゃんと弾きたかったら指運びが大切なのね!」と気付いたのは辞めてから10年も後の事でした。


 何事も、後から気付く事がとても多いです。


 クラシックといえば、サックスの演奏はかなり本気で取り組みました。

中学に上がると同時に、吹奏楽部に入部しました。 入学式で聞いた先輩方の演奏が、とにかく格好良かったんです。

 それもそのはず、今でも心の恩師である(後に中学吹奏楽界でも数本の指に入る指導者となった)妹尾圭子先生の指導する部で、当時は初めての全国大会を目指している100人越えの大所帯でした。


 入学前から知り合いのお友達(先輩ですが)が2人、サックスパートに入っていた為、私もサックスを希望しました。 無事希望が叶って、サックスチームに入る事ができ(パート数が多いので希望通りに入れるとは限りません)、毎日死にものぐるいで練習しました。

 先生が怖かったからではなく、本当に音色が好きだったことと、大人数になった時にそれぞれの努力が何倍にもなって一気に力を発揮する吹奏楽というスタイルが大好きだったからです。


 その結果なのか、1年生の頃からブラインドで選ぶカルテットの選抜に選んでいただいていましたし、3年生の時は部長をつとめました。

地元の松本市では斎藤記念オーケストラの指揮者として有名な故・小澤征爾先生にも市内学生選抜の時にご指導いただき、「あなたはサックスを続けなさい」と仰っていただきました。


 残念ながら私が部長の時までには母校は全国大会には届かず、今年こそ!と思っていた本大会の後は厳しい練習や指導に着いてきてくれた部の仲間に対する申し訳なさや不甲斐なさ(自主性を重んじる部風だったので練習メニューは私が決めさせて貰っていました)と悔しさとで、声を上げて泣きました。

しかし、審査結果を疑問に思った他の団体の皆様が連盟へ声を上げてくれたそうで、翌年から3年連続全国大会に出場し、殿堂(シード)入りしていました。

後輩達と吹奏楽一筋に打ち込んできた妹尾先生の努力が報われて本当に本当に良かったです!


 とにかく毎日怒られてばかりだったものの、退部時には「歴代一番の良い部長だった」と先生にもお伝えいただけ、私の吹奏楽時代は良い思い出として幕を閉じました。


 サックスの演奏は辞めてしまったものの、この3年間の経験はその後も何度も私の人生を支えてくれましたし、40歳を越えた今の私まで、根強く影響を及ぼしていると思います。


・辛いを、辛いで終わらせない 

・なんでも楽しむ 

・笑顔で乗り切る


 この辺りが、あの頃から変わらない私の本質のようになっている気がします。


 では、辛くないのか? 本当に楽しいのか? というと、違う時も当然あります。


 お話を今の政治活動に移します。


 町を回って歩く中で、「これは」という場面に遭遇する事はやはりあります。 

(でも直接的に嫌な事をされたことは本当にありません!とてもありがたいです。) 


 そして、謂れのない噂はもう既に多々伝聞しています。


 それが気にならないのか、というと、勿論気になります。 多分、人並みに傷付いてもいますし、わかりやすく毎晩悪夢ばかり見ます。 

(経験してもいないネガティブな予測まで丁寧に描いてくれています…私の潜在意識が。苦笑)


 本当の本当の本当は、怖いんです。

当たり前です。 人間だもの。(みつをさんになってしまった)


 ただ、それはチャレンジにはつきものなのだとも思っています。

静かに暮らしていれば起きなかったことです。 わざわざ '政治' というややこしい世界に声を上げる事で、自ら波乱を巻き起こしているわけですから、元を辿れば自業自得です。(苦笑) 


 「いやな事は自業自得」 「良い事はおかげさま」 この精神が、最も自分の心を平和に保つ方法であり、いつしか私の中の '当たり前の考え方' として定着しました。


 ただ、上記の考え方だけでは、ともすれば自分を追い詰めすぎてしまう事にもなりかねません。

その結果、20代前半には精神を病んだことがありましたが、それを乗り越えた後に、新たな考え方が追加されました。

 それは、 「いつ何時も、経験は宝」。

良くも悪くも経験。 失敗したっていいじゃないか! 経験を元に、改善していけばいいじゃないか! という気持ちでいるので、私は基本的に笑っていられるのだと思います。


 それでも、挑戦も失敗も怖いのです。 (人間とは不思議な生き物です。笑)


 これは、ちょっと笑えないぞ?という時は、もっともっと基本に立ち戻ります。 

「何はなくとも、生きている」 という事です。

 どんな経験も、命あってこそ。 

しかも、本当にありがたい事に、私は五体満足で生まれて来ました。


 そして、子供を抱いた瞬間、初めて、「生きて来て良かった」と心から思いました。

あれほど心底、この世界に生まれた事に感謝した日はありませんでした。

36歳(出産時)で初めて感じたというのは、ちょっと人として未熟過ぎる気はしますが(苦笑)、「生きているだけでいい」と教えてくれたのは我が子でした。


 ここへ立ち戻れれば、全ては表層に過ぎないとすぐにわかります。 

帰るべき場所が芯にどしっとあることは、多分私の強みです。


 今日は写真がないなぁ…と思ったので、僭越ではありますが、私の曲を載せます。

もっともピュアで、ストレートで、私自身がこれ以上私らしい曲を書く事はないだろう、と思う曲が、2020年のコロナ蔓延に伴う初めての非常事態宣言と共に生まれました。


 あまりに突然できた為、朝ご飯前のコーヒーを淹れる手を止めて、海外の友人にも届けたいと録画しました。 

その結果、早朝の為すっぴんですし、パジャマのままです。 

テンポも歌もはちゃめちゃですが……それは実力です。(苦笑)


 どうやらこの時は、我が子はほんの小さな豆粒としてお腹にいたような、いなかったような、という時期。 

きっと私が大切なものに気付いたから、「そろそろ行ってやろうかなー」という気持ちで我が子も私を母に選んでくれたのかな?なんて思っています。

 /母のYouTube上の転用です。 

 プリンターのエンジニアだった母は、アーリーリタイア後、いつの日からか占星術師になりました。

どうやら現在は先生として教えていたりもするそうです。

何かに迷ったり、幼い頃からのわだかまりが取れない、なんて方が、母を頼って実家にやってきます。 

占星術は何千年分の統計学だということで、(正直なところ私にはさっぱりわからない世界ではあるものの)、母の人としての強さと優しさを活かした良い仕事なのだろうと思います。 

 母曰く、私は '政治家の星' なのだそうです。 「でも本人にその気はなさそうだしなーと思って来たのよ」と、先日の真鶴来訪時に言われて、とてもビックリしました。)


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