しばらく公務の予定がないので、初稿が戻ってきた「議会だよりまなづる」の誤字脱字をチェックしつつ、
今日は「責任感」について、自分自身の考え方について書いてみたいと思います。
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なぜこれを書こうと思ったのかというと、つい最近、人としての器が何十倍も大きいなぁと感じる町内の方から、
「杏奈さんは、自分の範囲を超えるところまで責任を取ろうとしてしまうように感じる。手が届かない範囲はありますから、無理せずにね」
と言われて、
「思い当たる…」と思ったこと。
実母にこの夏言われた内容とも重なりますし、先日の議会報告会の中でも、
「責任を取れること・取れないこと」の境目や、
「自分と他人の境目」
のようなことを意識する場面があったからです。
自分自身、過去には「責任を取れなかったなぁ」と感じることがあり、それが何十年経っても、傷として残っているようなところもあります。
事象は様々ですが、自身のビジネス上のこともありますし、
より具体的に一つ挙げるとするなら、中学生の頃までお話は遡ります。
私は長野県松本市の生まれですが、公立中学校時代、吹奏楽部の部長を務めていました。
松本市では、世界的に知られる「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が開催されており、私も中学生の選抜メンバーに選んでいただいていました。
故・小澤征爾さんに「あなたはサックスを続けなさい」と言っていただいたことは、私の人生でも数少ない、心から誇れる思い出だと思います。
しかし、部長として陣頭指揮を任された最終学年で、私たちの学校は全国大会へ行くことができませんでした。
(今や中学吹奏楽部の世界では広く知られる恩師は、当時から自主性を重んじてくださる先生だったので、部活動のメニューは、その多くを部長や副部長の合議で決めさせてもらっていました。)
後輩を含め、100名を超える大所帯の部員のみんなを全国大会に連れて行くことができなかったことを、今も自分の責任だと感じています。
(翌年以降、母校は全国大会で金賞を受賞を続け、中学吹奏楽の殿堂入りを果たしました。)
実際には、それぞれがその時点でのベストを尽くし、それでも悲願に届かなかった、人生の中での一つの必要な経験として思い出の箱にしまってあります。
それでも、個人の悔しさよりも、申し訳なさや不甲斐なさで大泣きしたあの日の気持ちが、たまに頭をもたげるんです。
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よく、「責任感が強い・弱い」という表現がありますが、組織行動学や心理学の世界でも、責任に対する意識や行動の傾向を捉えようとする研究が続けられています。
どれもとても興味深い内容ですので、ぜひ皆様にもチェックしてみていただきたいなぁと思うのですが、
それも含めて、今回は、【政治家としての責任感】を、政治学や地方自治の制度の視点も踏まえた上で、じっくり掘り下げてみたいと思います。
まず、私がこのテーマで特に重要だと考えるのは、
「責任感が強いこと」と「責任を果たせること」は、必ずしも同じではない、
という点です。
そして、政治家の場合には、さらにもう一つ、
「責任を果たそうとすることが、かえって他者の権限や自由を侵害する場合もある」
という難しさがあるな、と考えています。
ここまで含めて考えると、「政治家に求められる責任感の輪郭」のようなものが、ずいぶん明確になるんじゃないかな?と思うんですよね。
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では、政治家としての「責任感」とは何なのか。
そもそも「責任」には、異なる意味があると思います。
私たちは普段、「責任」という言葉をかなり広い意味で使っている気がしています。
「責任感がある人」「責任を負う人」「責任を取る人」。
似た言葉ですが、それぞれ異なるものを指しているように思います。
私なりに、これをよりわかりやすく3つに整理してみると、
① 責任を感じる力
=自分の問題として受け止める力
② 責任を引き受ける力
=困難な状況にあっても、自分の役割から逃げない力
③ 責任を果たす力
=説明、改善、結果への対応を実際に行う力
になるのかなぁ、と。
この3つは似ているようにも感じますが、同じではありません。
例えば、責任を強く感じていても、実際に責任を果たす行動が伴わない人もいます。
逆に、責任感が強すぎて、本来は他者が担うべき責任まで背負ってしまう人もいます。
そして、そこに能力が見合うとも限らない。
(私はどうだろう…どれも欲しい…と、悶々と考え続けるわけです。)
少なくとも、責任感の強さと、責任の果たし方は分けて考える必要がありそうです。
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ここで、一つの疑問が生まれます。
「責任感が強くても、結果を出せなかった人は無責任なのか?」
例えば、とある町の政治家が、町民の生活を守ろうと真剣に考え、十分な調査をしたうえで政策を立案した、もしくはその政策に賛成したとします。
しかし、その政策が想定どおりの成果を上げなかった場合。
これを「結果が出なかったから無責任だ」と単純に評価することが適切だとは限りません。
政策には予測できない変化や、政治家個人では制御できない事情が存在するからです。
一方、結果が悪かったときに「私は良かれと思ってやったのだから、責任はない」と言ってしまえば、それも問題になります。
だから責任を取らなくて良い、とはならないわけで。
(どちらも「やらなかった・止めた場合」にも同じことが言えますね。)
つまり、政治家の責任を考える際には、
「何を意図し、何を根拠に判断し、どう行動し、その結果にどう向き合うか」
を、それぞれ分けて考える必要があるんです。
結果だけでなく、そこに至る過程や、その後の対応にも責任があるということです。
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政治家の責任について調べているときに、気になった方がいます。
ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという方です。
ウェーバー氏は1900年代の講演『職業としての政治』で、政治に携わる人間の倫理について論じています。
その中で有名なのが、次の2つの概念だといいます。
① 心情倫理
自らの信念や価値観に従って行動することを重視する倫理。
② 責任倫理
自らの行動によって生じると予測できる結果も考慮し、その責任を引き受ける倫理。
この2つを深く対立するものとして捉えながらも、政治に携わる人間にとって、どちらも欠かせないものであると論じています。
さて、私はどうだろう?と考えたときに、①はかなり強めだと自覚しています。
②に関しては、残念ながら、結果を見誤る場合があります。
その都度修正しているつもりではあるものの…まだまだ勉強が必要です。
ただ、自分に端を発した事象については、200%引き受けたいという思いがあります。
修正不可能な間違いもあると感じるからです。
でも、その「200%」こそ、今回考えている自分自身の偏りなのかもしれません。
責任の引き受け方も、私個人が思う「最善」と、誰かが感じる「最善」は違ったりします。
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議員にならせていただいて、丸1年。
私に一票を託してくださった皆さまの負託に、応えられているのか。
それを常に考えてはいますが、どれだけベストを尽くしても、全員が認めてくださるわけではありません。
また、自分の思う責任の取り方が、正解であるとも、理解されるとも限らない。
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ここで、地方自治の制度についても考える必要があると思っています。
地方自治には「二元代表制」という仕組みがあります。
議員と首長(真鶴町の場合は町長)は、どちらも町民から直接選ばれる、という意味ですが、それぞれに役割と権限があります。
議会は議事・議決や行政の監視、時に政策提案などを担い、
町長は政策立案や行政の執行を担う。
もちろん、議員として自らの判断や議決に責任を持つことは必須ですし、結果を検証し、改善につなげる責任もあると思っています。
でも、議員である私が、行政のすべてを自分の判断で動かすことはできませんし、役割上、そうして良いわけでもない、というのが「二限代表制」の難しさでもあります。
こう考えると、
「責任を感じること」と
「自分に与えられた権限で責任を果たすこと」は、
やはり違うのだと思います。
だからこそ、自分がどこまで責任を負うべきなのか、その責任をどう果たすべきなのかを、常に考える必要があるのでしょうね。
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随分と小難しいお話になってきましたが…
この「責任感」の細分化と在り方は、これからも考え続けていきたいと思っています。
私の中にある「偏り」のようなものが、町の未来に直接関わる立場をいただいている以上、
これを考え続けることも「責任」の一部だと思っているからです。
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さて。
今夜は後援会「あんなの輪」の定例会。
ここも、私にとっては「説明責任」を果たしていくための場の一つだと考えています。
先日の議会報告会の内容も踏まえて、様々な立場や背景を持つ町民の皆さまに、よりわかりやすく現状をお伝えし、意見交換を行う場です。
毎日が考え事だらけ。
そして悩み事だらけ。
でも、ありがたいことに「悩んでます」と言える場が、私にはたくさんあります。
家族、友人、同僚、町の方々。
様々な方の考え方をお聞きし、吸収する中で、これからも「責任感」と向き合っていきます。
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