母が私にくれたもの。

 真鶴町の中でも、そこここでソメイヨシノが咲き誇る週末です。 

 (荒井城址公園での'しだれ桜の宴'のライトアップは明日まで。まだの方は是非ご覧になってくださいね!)


 私には、この時期になると思い出す光景があります。 


 かなり遠い記憶ではあるのですが、私が通っていた保育園は大きな川沿いにあり、春には見事な桜並木となりました。 

その下を車で通りながら、「今年も綺麗だねー!」と言って運転する母の姿です。


 今考えると、私は自宅からかなり遠い場所にある保育園に通っていました。 

車で30分ほど揺られて到着する、とても特色がある(当時は無認可の)0歳児から通える保育園だったようです。 

 母の通う会社がある地域とは、真逆の方向にあり、保育園から職場までは、また小1時間ほど走らなければならなかったはずです。 

 当然もっと近くに地域の保育園があったはずですが、「どろんこ上等!」と、ワイルドな育て方をしてくれたり、幼いうちから園児の責任において包丁や針なんかも持たせてくれる保育園でしたので、そんな園風が気に入ってわざわざ通わせてくれていたようです。


  あの桜を見ていた頃の母は、今とは随分印象が違いました。 

いつも眉毛が下がっている(悲しそうな顔している)印象が残っています。 

今思うと、同居していた義両親との関係や、不誠実な当時の夫(つまり私の実父です)との関係に悩んでいたのでしょう。


 私を19歳で産み、あっという間に新卒から勤務していた会社へ戻り、毎日毎日遠い保育園へ私を送迎する。 

そして、途中から母子家庭になりながら、懸命に私を育ててくれました。


 保育園在園中から小学校卒業の間近まで親一人子一人でしたし、寒い冬の日には土壁と柱の間から外で降る雪が見えるような家に住んではいましたが、自分の境遇を不幸だと思った事はなかったように思います。 

父親が居ないことを埋めるに余りある母や祖父母、母の兄弟などの家族の愛情と、ご近所さんや母のご友人達のサポートのお陰であると、とても感謝しています。


 私の母は、昔から本当に沢山の方に愛される人でした。 

 私が幸せに成長してこれたのも、母が周りの方々に愛されていたから。 

そして、「地域が子どもを育てる」という感覚がしっかり残っている地元だったからだとも思っています。


 真鶴町も、そのような古き良き風習が残る町だと感じています。 

道行く人はだいたい知り合い。 

'神奈川県'という都会の端っこにあって、「町全体がひとつの家族」となれる港町ではないかなぁ、と感じています。 


 そして、まだまだ日の目を見ていない魅力が沢山詰まっている町だとも感じます。 


人口の減少、町民の老齢化、一次産業の衰退、諸々に伴う財政の傾きなど、問題と呼べるものは山積していますが、それは真鶴町に限ったことではありません。 

日本という国、全体にある問題です。


 少し視点を変えて、老齢の方が多いということは、沢山の知識と経験が蓄積されている町なのではないか?とも思いますし、 その上で、私のような余所者を受け入れようとしてくれる懐の大きさも持っている町です。 

 確かに変えるべきところも多いとは思いますが、先ほど述べたような「横の繋がり」は、一朝一夕に成り立つ物ではなく、また作ろうと思ったところで簡単に作れるような物ではありません。


 そんな町の'気配'にノスタルジーと馴染みやすさを感じて、真鶴が好きになる人も多いのではないかと感じています。 (まさに私がそうです)


 ポスティングをしながら町を回っていて、もっとも驚いている事をお伝えしたいと思います。

(毎日町を歩き回っても、まだ600軒ほどなので、全員の方に直接!という夢までは遠いのですが…) 

お会いできた中で、「誰も門前払いしなかった」ということです。

ただのお一人も、です。


 必要ないとお伝えになる方ですら、まずちゃんと話を聞いてくださいます。


 ある一時期、都内に住んでいた私としては、本当にびっくりしましたし、これは本当に凄いことだと思っています。 

私は政治活動を始めたことで、これまでよりもずっとずっと真鶴が好きになりました。 


 この町は、これからもっと良くなる。 

日増しに強くなるこの想いを、全て活動のパワーに変えて行きたいと思っています。


 【みんなで、町を作る】 

真鶴ならそれができると、今確かに感じています。

 母について書こう、と思ったのは、私のこの '信じる力' に気付いたからです。


 自分の長所を正確に捉える事はなかなか難しいですが…

あえて自覚できる特徴を挙げるとすると、私にはチャレンジ精神があります。 

何度でも立ち上がる力があります。 

人を、人間の底力を信じる力があります。


 これはたまたま持ち合わせていた物ではない気がしたのです。


 母は、私の言う事、やる事、考える事にしっかり向き合い、その上で義理人情や躾という面では比較的厳しく育ててくれました。

 正しいか、正しくないかよりも「それは本当の優しさなのか」を問うて、見せて来てくれた人物のように思います。


 自分が辛い時も、苦しい時も(きっと多々あったでしょうが)、ただの一度もその姿勢を崩したことはなく、 私が私らしくあることを認めて育てて来てくれました。


 当然、自分の身体や精神の疲れを理由に八つ当たりされた、なんて記憶もありません。 

眉が下がっていた、あの時代もです。

自分自身が母親となった今では、それがどれほど尊い事だったのか、感謝と共に痛感しています。


 今更ながら、私は素晴らしい母の元に産まれることができた!と思います。


 そんな母は、私が12才の時に現在の夫(今の父)と再婚し、そこから急に、'かっこいいママ' から '可愛いお母さん' へと変貌しました。 

子育て終了宣言をしてからは、以前より喜怒哀楽が見えるようになったような気もします。 

「あ、母も人だった!」と、安心した覚えがあります。(笑)


 それが母の本来の姿なのであれば、子育て期間中は随分と無理をさせてしまったのだなぁ、と申し訳なく思いますが、 還暦を迎えた今の方が2,30代の頃よりずっと若々しく、エネルギッシュにご友人やお仲間と日本中を飛び回っています。

 歌うことや表現する事が好きで、今でも母の周りには娘の私が把握できないほど沢山のご友人達がいます。

きっと可愛いおばあちゃんになるんだろうなぁ!と思う、自慢の母です。


とにかくいつまでも元気に、母は母らしく、残りの人生を楽しんでほしいと心から願っています。


母の人選は素晴らしく、現在の父も私にとってとても大切で尊敬できる人です。

父のことも、またいつか書きたいと思います!


とにもかくにも、私はずっと人に恵まれて生きてきています。

私も 'ずっと私に優しかった世界に恩返しする人になりたいな' なんて、烏滸がましくも大それた事を考えるようになって来た、今日この頃です。


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