昨日は2回目の政治塾の日で、私にとってとても印象的な1日となりました。
朝早めに真鶴駅を出発し、霞ヶ関へ向かいました。
そして1限目、講師である村上誠一郎総務大臣のお話を拝聴しながら、
「そうか、私は自分で思っていたよりもずっとずっと、落ち込んでいたんだ」 と、
はたと気づきました。
全くもってこれまでの人生の選択肢とは畑違いの"政界"を、ほんの少し覗かせていただいている私。
"明るく楽しいお母ちゃん(ちょっと意見しっかりめ)"という自己認識だった私の、
見られ方が変わる、発言の重みが変わる、町の方との関わり方も変わる…という2ヶ月に、しっかり対応できていなかったのかもしれません。
'ただただ町が好きで、もっと良い町になって欲しくて、自分の身体も心も経済も大切な家族との時間も削っているのに、何処でそんな話になってしまうのだろう'
…時にそんな思いを持ちながらも、「誰がどのような印象を持つのも、その方の自由」という信念に従い、ガッツと町への愛情を奮い立たせて動き続けて来ました。
それでも、時々心は泣いていたのだと気付くのに、少し時間がかかってしまったようです。
講義の後、質疑応答のお時間をいただきました。
せっかくの機会だからと、村上大臣は時間を超過しても希望する塾生全員の質問に答えてくださいました。
「ここで格好つけても仕方ない、私は今の私の本当の気持ちと疑問をぶつけよう」と思い、政治活動の中で現在感じている事を包み隠さずお伝えしました。
すると、畏れ多い激励の後に少し呼吸を置いて、
「私がここまでやって来れた原動力は、’ひとつの電球’なんです。」 と、村上先生が話し始めました。
要約させていただくと、
- 31歳でお金も力もない若者が、政治に手を挙げた。 当時は冬6時になると真っ暗で、島々を繋ぐ橋もなく(村上先生は愛媛2区で現今治市宮窪)、船にスピーカーをつけて話しながら回った。-
「そんな時、山の上からね、あの頃は何もないからね、よく見えたんですが、裸電球を持って来てずーっと振ってくれたんですよ」
それまで闊達な意見交換をされていた村上先生の話し方がポツリポツリとに変わり、一度完全に止まりました。
そのあとは明らかに声が震えているのがわかりました。
「裸電球持って来てね…振ってくれてね…まさに、灯台の光でした…」
「あの光が、私がここまで続ける原動力なんです。」
「あなたにもそういう人が居るはずなんですよ。 だから最初は1人でも、信じている事があるなら…ブレずに続けるしかないですよ。」
と、涙ながらに伝えてくださいました。
そんな記憶とその時の想いを、その後13期連続で選出された方ですら覚えているのだと、胸が熱くなりました。
政治的思考が理解できる・出来ないは、村上先生に限らずどの講師の方に対してもあると思いますし、方向性が定まらない人間が政治を考える事の方が怖いと私は感じます。
それでも、大臣まで務めるようになった方の、政治家でもない私のリアルな悩みにしっかり答えてくださる姿勢と激励は、私には充分過ぎるほどに刺さりました。
「真摯に向き合えば、必ずわかってくださる方がいる」
その思いは、確かに今の私を支えてくれています。
既にいただいている町の方の嬉しい一言一言を、きっと生涯忘れる事はないと思います。
2限目の講師の西鋭夫先生の、絶対にここでしか聞けないのだろうな、というお話と、ところどころで出る優しい広島弁にも、
「やっぱり自分にまっすぐでいよう、まだまだ頑張れる」と思わせていただきました。
3限目の植草一秀先生の政治と経済のお話では、リベラルの立場を取る方から見た、「これまでの日本と世界の変遷」「何がどう難しかった結果、今の日本になったのか?」そして「浮上への突破口はどこにあるのか?」など、メモが全く追いつかない程の情報量でした。
夜の懇親の時間で応援のお言葉までいただき、本当にありがたかったです。
また、今回は前回より肩の力を抜いて、かなり等身大に近い自分で参加できた事で、塾の同期生の方々とも様々なお話をする事ができました。
その中で、 「え?ほとんど1人で回ってるの?俺真鶴へ行くよ、一緒に回るよ」と言ってくださる方が居たり、
「何でもしますよ、ボランティアでいいですよ」と言ってくださる方がいらっしゃったり…
本当に涙が出るほどありがたく、町の方に限らず、やはり私は決して一人ぼっちではない、と、感じさせていただきました。
1日を終えて、ちゃんとあるべきところへ心が帰って来たように感じました。
誰に頼まれたわけでもなく、何かに巻き込まれたわけでもなく、ただ自分が願うことを口にして町を回っている私は、 皆さんの時間をいただく価値がある、ちゃんと役に立つ人になりたい。
辛いと感じる時も常に感謝を忘れず、決して腐らず、真っ直ぐ前をみて進む。そんな人間でいたいと思います。
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